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「悲しみに寄り添う」とはどういう事なのか?

大切な人がいて、その人が落ち込んでいる時、もしくは暗い過去を抱えていて時折悲しそうな表情や苦しそうな表情をする。

過去だけでなく、今も悲しい思いや苦しい思いをして過ごしているのだとしたら、今すぐにでも大切な人を苦しめるものを取り除いてあげたい。

私の中ではそう考えるのが自然なものだと思っている。

 

 

 

自己満足ではないのか?

「何とかしてあげたい」

そう思う感情は本当に大切な人に向けての気持ちなのか?

 

考えれば考えるほどに分からなくなりそうですが、たぶんそれは大切な人に向けての感情ではなくて自分へ向けた感情なんだと思います。

「助けてあげたい」「救ってあげたい」そう思うことが自分自身少し上から目線になっているように感じますし、「やってあげた」という押しつけがましい気持ちを自分の中で綺麗な気持ちだと思い込もうとしているのだと思います。

 

もちろん、大切な人に向けての気持ちも含まれているのでしょうが、ほとんどは自分に対する気持ちなのだと言うことです。

 

 

 

相手が望んでいることなんて本当の意味では分かりはしない

自分が悲しい時に誰かに何かをしてほしい時がある。

 

でも、自分が「してほしい」と思った事をしてもらったとしても、それで悲しみが晴れる、もしくは薄れるかと言えばそうではない。

また他の悲しみに気持ちが引っ張られ、次々に悲しい気持ちが沸いて出てくる。

 

自分が悲しいと思う時でさえ自分でも何を望んでいるのか分からないのだから、他人が望んでいることなんて分かりはしない。

相手が望んでいることにあたるまでひたすら相手の事を考えて行動したとしても、それは邪魔になる可能性の方が圧倒的に高い。

 

 

 

自分に出来る事は思うより少ない

大切な人が悲しんでいる時に自分が出来ることなんて少ないのかもしれない。

相手の望みが本当の意味では分からない以上、何か余計な事をしてしまうかもしれないし、仮に望んでいることをしたとしてそれで悲しみの全てが晴れるなんてことはない。

 

 

 

 

行動・言動は不要なものなのかもしれない

悲しんでいる時、私はその人の為に行動したくなる。

その人を少しでも元気付ける為に「言葉」というものを必死に頭の中でかき集めて励まそうとする。

 

でも、それは本当は必要のないものなんだと思う。

 

 

 

全てを受け入れる努力をしたい

大切な人だからと言って、日常生活ですべてを受け入れることはできない。

嫌なところは絶対に出てくるし、少し意地になって受け入れない部分もある。

 

でも、悲しみの中にいる時くらいはその人の「全てを受け入れる」という大きな気持ちでいれば良いと思う。

簡単な事ではないし、気に入らないことを言われれば否定しそうになる時もあるかもしれない。

それでも歯を食いしばって腹に力を入れて言葉を飲み込む。

 

 

 

一緒に悲しみに沈みたい

相手が悲しみに沈んでいるのなら、私も一緒に沈みたい。

最終的にはそう思う。

 

悲しみの中にある大切な人を放っておくことは嫌だ。

でも、下手に手を差し伸べても不必要、もしくは迷惑をかけるくらいなら隣で深い悲しみに沈んでいきたい。

1人で沈むその人を見るくらいなら、自分も一緒に沈んで共に沈み、その悲しみに触れたい。

そうすることで癒される訳ではないにしろ、不安な気持ちを少しでも取り除くことができると思いたい。

 

 

 

 

まとめ

私の中で悲しみに寄り添うというのは「一緒に悲しみの中に沈む」ということ。

近くにいるだけでも癒せるのではないか?とも考えたが、それだけでは自分が納得できない。

自分が納得するためには、大切な人の悲しみを理解した上でそれを共有し、一緒に悲しむ。

共有することを拒否される可能性も十分にあるが、誠意さえ持って接すれば必ず理解してもらえる時が来る。

その時に彼女が私の手助けを必要とするのであれば、その時は自分のことよりも本気になって取り組めることは取り組むだろう。